よく「無意識にやっちゃった」と言いますが、違うよね、と心のなかでツッコミ入れてます。

言うなら「無自覚」だろう、と。

本当に無意識につながることができたらすごいな……すばらしいかもしれない!

(社会生活的に適合できるかどうかはわからないが、生物としてはとても心地よいのではないかと推測)

では「無意識にやっちゃった」と「無意識に」言ってしまうのはなぜだろう。

 

……「無自覚」であるということを認めるほうが、「無意識」でいたより怖い・嫌だと感じるからだとしたら?

そこにどんな潜在意識があるのだろう。

「無自覚」であるって、なんだか恥ずかしいことと思われていないかな? 自覚がない、と言われるとき、責められている感じがないかな? つまり、罰に値するようなことなんじゃないかと……どこかで思い込んでいないかな。

 

(写真は11月1日名古屋へ行く新幹線の車窓から見えた富士山)

「無意識と無自覚」への2件のフィードバック

  1. 「無意識にやっちゃった」は日本語として決して間違っていませんよ。

    ~お前は無意識に美しい権利を自覚しているのであるから。 魚を殺せ。そして釣れ。 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」

    衒学趣味からか、何故か無自覚に心理学の領域に限定して論じてらっしゃると思うのですが、無自覚の意味のなかに無意識の意味も含意されています。

  2. 何故コメントが反映されないのでしょうか?

    例えば、何かの製造工場での作業の中で、
    これまで何万回と繰り返してきた一連の作業のルーティーンの中で、
    その日だけは、それまでのAのボタンではなく隣に取り付けたBのボタンを押してくれと頼まれたとします。
    当然のことながら、Aボタンをそのままにしておくと、
    Bを押さなければならないところを、誤ってAを押すミスが発生するわけですが。
    それはどういう事かというと、ボタンを押した時点では押したと「自覚は有る」わけです、しかし押した時点でどちらがBなのかをちゃんと「意識して押して無い」という事になります。
    日本語として、「無自覚に押してしまった」がギリギリ成立しても、「自覚して押していない」というのは、意味は伝わるが文章として不自然だというのは理解できますよね?

    なので、無意識の事とは思いますが、論理的にも一般論としてもあなたの認識にはズレがあります。

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