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自分がそういうことをしていないか注意深くありたいと思うのだが、世の中には他人のことを自分の思いどおりにコントロールしたいという欲求が強い人々がいる。

それが意識的におこなわれていることもあれば、自分がそうしていることを本人も気づいていない無意識的におこなわれているようなこともある。

 

たとえば、私がなにげなくFacebookやブログにあげた写真があるとする。

料理を作っているときに包丁で親指を切ってしまい、流血の事態となった。

幸い傷は深くなく、おおげさに血が流れたけれど、病院に行くほどでもない。

絆創膏を強めに巻いてしばらくすれば、血も止まるだろうし、傷跡も残らないだろう。

しかし、この血まみれになった指とまな板の様子は、ちょっとスプラッタでおもしろい。

そう思って私はスマホで写真を撮ってみたのだった。

 

写真をアップしてしばらくすると、激烈なメッセージが私のところにねじこまれてくる。

「あんな気持ちの悪い写真、人に見せないでください。私、血を見るだけで気絶しそうになるんです。いますぐ削除してください!」

見なければいいと思うのだが、彼女には通じない。

ともかく激怒している。

かと思えば、私のたいしたこともない怪我を心配して、やさしいメールをくれる人もいる。

むしろそのほうが多い。

 

削除しろといってきた彼女は、いえば私が彼女のいうことをきいて、彼女が不快に思っている事象をなくせると思っている。

つまり、私をコントロールできると思っている。

もちろん私は彼女の要求を聞き届けて写真を削除することもできるが、要求を聞かないという選択肢もある。

この場合、私は彼女に共感を向けることができる。

彼女はいったいなにを大切にしているからそんなに怒っているのだろうか、と。

 

世の中にはつねに、自分の価値基準や倫理基準が大切なあまり、それを絶対的だと思いこんでしまっている人たちがいる。

赤信号は守るべきだ、たとえ車が来ていなくても渡るべきではない、子どもが見ているかもしれないし。

女性は35歳までに出産すべきだ、卵子が健康なうちに出産しないと障碍児が生まれやすい。

かかる可能性を低く抑えるために、インフルエンザの予防ワクチンは毎年かならず受けるべきだ。

 

この人たちの言動にはかならず「~すべき」あるいは「~してはならない」という語尾がつく。

そしてそこには「怒り」の感情が含まれている。

彼らは自分の安全や安心をおびやかす世の中のさまざまな事象にたいしていつも怒りまくっていて、とても忙しい。

自分の安全・安心のニーズの面倒を見るはずが、「他人をコントロールする」という外に向けられた怒りとなって表現されてしまっている。

こういう人々から攻撃されることがしばしばある。

 

こういった人々から攻撃されたときは、これらの人々が大切にしている価値に目を向け、共感し、できればそれをどうやれば守ることができるかいっしょにかんがえてあげるといい。

もちろんいっしょにかんがえなくても、ただ共感し、またこちら側の価値も大切にする。

彼らにコントロールされる必要はないし、それどころかより自分の価値に気づくよい機会だと思って、自分に深く共感すればいい。

(オーガナイザー・水城ゆう)

 

明日10月31日は現代朗読協会「羽根木の家」で共感的コミュニケーションの勉強会を開催します。

興味がある方はこちらから詳細をご覧ください。

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