音読療法士で現代朗読家の野々宮です。

承前。

家族が末期がん宣告を受けたとき、自分のなかでいろいろなことが一気に起こりました。

とくに最初の一ヶ月ぐらいはずっと泣いていたのではなかったか。本人の前ではふつうに(そうしようと心がけたわけではなく)しているのですが、ひとりになると泣けてくるのです。「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」(ジェームズ=ランゲ説)という言葉がありますが、そうかもしれない。感情が遮断されているようで悲しいとかいう気はないのに、泣くので悲しいのかなと思えてくる、そんな感じでした。

そのときは他に何もできない、というか「呼吸しかできない」。

ひたすら呼吸法をしていました。反芻思考に陥ったらそこに溺れてしまうだろうからこれはいい策だとは思いましたが、たしかに放っておくと「考えても詮無いこと」を考えようという方へ気が向いてしまう。でも「考えても詮無いこと」というのはわかっている。これから先どうなるとか、そんなこと今考えても本当に役に立たない。無駄な思考実験でしかないのですから。

また放っておくと息が浅くなる。息が浅くなると視野が狭くなり、そんな状態で考えることはやっぱり時間の無駄にしかならない。「残された時間」というのがリアルに迫ってくる状況で、そんな愚かなことに時間は使えない。でも他に何も思いつかない、できない。なので、息をしよう、と思ったのです。

実際、「呼吸しかできない」のですが、意識してゆっくり呼吸していれば、副交感神経が優位になってきて落ち着いてきます。落ち着いてくるので、NVC(共感的コミュニケーション)を起動でき、今この瞬間の自分の気持ちの機微に気づき始め、その奥のニーズにも思い至れる環境が立ち上がってきます。すると次第に視野が明るくなってきて、ゆっくり息を吐いて、泣き止んで、よし、お茶でもいれて一緒に飲もう、という気分になるのです。

音読療法に本当に救われたと思いました。自分がやってきたことが、いざというとき自分を救ったのだ、と感じることもまた救いになりました。

それが「ただの呼吸」なんですから。人生ってなんなんだろう(笑)。

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