よく「無意識にやっちゃった」と言いますが、違うよね、と心のなかでツッコミ入れてます。

言うなら「無自覚」だろう、と。

本当に無意識につながることができたらすごいな……すばらしいかもしれない!

(社会生活的に適合できるかどうかはわからないが、生物としてはとても心地よいのではないかと推測)

では「無意識にやっちゃった」と「無意識に」言ってしまうのはなぜだろう。

 

……「無自覚」であるということを認めるほうが、「無意識」でいたより怖い・嫌だと感じるからだとしたら?

そこにどんな潜在意識があるのだろう。

「無自覚」であるって、なんだか恥ずかしいことと思われていないかな? 自覚がない、と言われるとき、責められている感じがないかな? つまり、罰に値するようなことなんじゃないかと……どこかで思い込んでいないかな。

 

(写真は11月1日名古屋へ行く新幹線の車窓から見えた富士山)


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