承前。

したい、でもしたくない、というこのねじれは、感情と考えの対立と言ってもいいかもしれません。感情が指し示していたのは、つながりや思いやり、平和を大切にしたかったということ。考えは、正しさ(自分が正しい、自分を卑下することは間違っている、自分を尊重することは正しいふるまいだ、等)を大切にしたかった。

感情と考え、どっちがいいとかではないのですが……「暴力」につながる要素があると、つながり・コミュニケーションを断(た)ってしまいます。

「正しさ」には「間違い/誤り」という対立する概念があります。これが、暴力につながる要素です。

「どっちが正しい?」は争いを生むゲームです。どちらも自分が「正しい」と思いたいからです。ところが、多くの場合どちらも「正しい」のです。どちらにも言い分があり、立場が変われば正しさも変わるのです。しかも相手の「間違い/誤り」を証明できたとして、「はい、確かにこっちが間違っていました」と相手が認めることはめったにありません。往々にして、より対立を激化させるでしょう。「正しさ」争いの場では、正論はねじ伏せられてしまいます。

一方、「つながり」「思いやり」「平和」といった価値観(ニーズ)に対立概念はありません。「誰」「どこ」「どんな」など固有のエピソードに関わる情報(文脈)から離れてこのニーズの語だけを見ることができれば、これらの価値に異を唱える人はいないでしょう。文脈なしでそのニーズを見ることなんてできるのか、と思う人もいるかもしれませんが、マインドフルで、ジャッジ(評価・判断)を手放した状態にあるとき、それが可能になります。

(ちなみに、これがNVCの身体性です)

(この項続く)

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